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流鏑馬神事式次第

 「流鏑馬」とは、馬に乗って走りながら鏑矢を射放って板的を射当てる騎射の一種ですが、けっして競技ではありません。本来の起源は、天武天皇(7世紀後半)のころ行われていたとされる「馬的射」が原形であろうという説が有力です。(日本書紀)
 11世紀になると、白河上皇が鳥羽殿の馬場で「流鏑馬」をご覧になったという文献(中右記)もあり、一種の宮廷行事であったことがしのぱれます。<馬に乗って鏑矢を射流す>ことから「流鏑馬」の字が当てられたものと想像されます。

 時代がくだって鎌倉時代になりますと、源頼朝公が鶴岡若宮(現八幡宮)で放生会を催した際、流鏑馬を奉納したと、かの「我妻鏡」に記されております。この行事は、次上北条時宗の時代まで通算47回も幕府の公式行事として行われていました。
 今日では、武田流弓馬礼法第35代司家金子家教先生(鎌倉市由比ケ浜在住)のご一門により、「武田流」として正統に受けつがれています。

一、出陣
 奉行は武田菱の定紋のある綾桧笠(鬼面のついた)黒地に金糸の揚羽向蝶を散らした鎧直垂(中袖)に銀鞘に金の蛆巻した太刀を帯び、ニ十四本を差した征矢を負い、重藤の弓を持ち行を付け射沓をはくのである。射手は赤地又は青地に各々家紋を金糸で表した鎧直垂(中袖)に射手手を指し綾桧笠(鬼笠)を戴き、右腰には矢四本、前差及び尻鞘をかけた太刀を帯行をつけ射沓をはく、的目付、弊方、矢取、旗手、扇方、陣太鼓の諸役は直垂(大袖)に後三年形の烏帽子を頭にし太刀を帯び鼻高沓をはき、出陣に備える。
 奉行の打つ「寄せの太鼓」を合図に射手、諸役一同が神前に勢ぞろいする。
二、鏑矢奉献・願文奏上の儀
奉行、射手、諸役は行列によリ拝殿へ進み向拝に一列横隊に跪座する。
 奉行は天長地久に用いる鏑矢を神前に奉献し、天下泰平、五穀豊穣の願文を奏上、鏑矢を拝受し、一同退出する。
三、天長地久の式
 神前に戻り、射手、諸役は天長地久の式の型に並ぶと、奉行は、「五行の乗法」を行う。即ち乗馬し左廻リ三回右廻リニ回、中央の位置で馬を止め正面に目礼して、鏑矢を弓につがえて天と地に対し満月に引き天下泰平、五穀豊穣を祈念する。
 これよリ馬場上に向かって行進を開始するのである。行進中は「序の太技」を打ちながら馬場上に至り諸役は馬場左側を通り各部署に就く。射手は乗馬のまま馬場上に残り、奉行は下馬し櫓に組んだ記録所にあがり、諸役が部署に就いたのを確かめ「破の太技」を打つ。馬場上・下の扇方は、扇で合図し準備が完了した事を知らせる。これより射手は順番に「素馳」をする。
四、騎射
(1)奉射
 式の的は一尺八寸四方で、板を網代にあみ、その上に白紙を張リ青黄赤白紫の五色で丸的をあらわし、的の後には四季の花を添える。式の的の騎射に移リ、射手は一番手、二番手の二組に分かれて、それぞれ三回奉射する。即ち重藤の弓を持ち三つ的を全速カでかけ抜けながら三回九本の失を射る。
 
(2)競射
 的は「土器ニ枚を合せ中に5色の切紙を入れた三寸の小的」で命中すると土器は砕け、中の五色紙は吹雪の如く飛び散る。尚競射の出馬資格は式の的を七本以上的中した者が、その資格を有する。
 競射が終ると奉行は記録所に於て「止めの太技」を打ちならし、諸役は各々手持具を持ち「奉行」射手は乗馬のまま神前に帰り凱陣の式を行う。
五、凱陣の式
 競射の最多的中者は、式の的を持ち、奉行前に進み出て跪座する。奉行は扇を開き骨間よリ的を検分する。扇を戻し、太刀の鯉ロを切った時、太敦は「ドン・ドン・ドン」三打する。
 奉行の「エイ・エイ・エイ」の声に続いて射手諸役一同「オー」と唱和する。これを三回繰返し勝閧を揚げる。(これは首実検の意を表現している。)

以上

(甲斐の勝山流鏑馬神事より)