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勝山の流鏑馬と『後三年の役』

「勝山の流鏑馬神事」のいわれ

 勝山の冨士御室浅間神社の流鏑馬神事の歴史は古く、白川天皇時代の、後三年の役(〜1087年)より起こり、源義家(八幡太郎義家)勅を奉じて奥州の清原軍と戦うも苦戦。弟の新羅三郎義光は、京の都より官職をなげうって、祖父の源頼信公(甲斐守)の縁の地である甲斐の国に援軍を求め、山伏、農民、案内人を含め五千余人の兵と甲斐駒、黒駒の駿馬ニ百頭を集めた。天慶鏡定の古事にならい、冨士御室浅間神社に神護を乞い祈願すること21日、満願の夜明とともに、濁り酒を酌み交わして進発した。そして、兄弟軍協力して善戦し清原軍を鎮定した。
 この戦勝は正に神の御加護によるものと9月9日、再び御室浅間神社(ニ合目下鈴原“りゅうケ馬場”)に立ち寄り、陣楽を奏でし(笙、ひちりきなど)盛大なる御礼祭を挙げた。以来9月9日の、芝坐祭(おだいどころまつり)9月19日に流鏑馬神事(やぶさめまつり)の奉納となった。
 新羅三郎義光(源義光)は後に甲斐守となり、この人が甲斐源氏の祖である。その後、武田家は甲斐にあって代々栄え、義光から数えて18代武田信虎、19代信玄、20代勝頼の三公、殊に冨士御室浅間神社を尊崇し、寄付・願書等多く、所蔵文書「勝山記」などに明らかである。…冨士御室浅間神社の由緒記には、このように書かれています。
 二合目のりゅうケ馬場で行われていた、この流鏑馬もその後、そこまで行くのが難儀なため、板垣信方の命により、河口湖町船津の長馬場(高尾町・生長の家の所)で吉田方面と、大原七郷により執り行われて来たが、神社の位の達いなどから、いさかいが起こり、下吉田と勝山に別れた。
 昔は京都に神祇官(占部・白川家)があり、ここで許可しなければ祭司はできなかった。勝山には許可されたが、下吉田にはおりず、勝山の神主に頼みに通ったと言われ、神主は許可したが神事でない為、「馬とばし」と言わせたと言われます。又、馬とばしの名の由来は、吉田には朝馬・夕馬などの「勝山へたより」をする者がおり、ここから来ているものと思われます。
 勝山の流鏑馬も慶長十七年(1612年)の富士山ニ合目、本宮本殿造営後は、小佐野越後守の司祭により、勝山を中心とする大原七郷(鳴沢・大嵐・長浜・大石・船津・小立・勝山の各村)の氏子たちによって御室浅間神社の河口湖畔、里宮境内の馬場にて9月19日盛大に奉納され、祭政一致の時代を創り上げた。いま、この馬場跡の東端には、昭和41年建立の『流鏑馬史跡緑起由来碑』が建っている。
 明治の改革、四民平等、家格貴賎の別撤廃、また日清戦争などにより大原七郷の村出金整わず、ついに明治三十年を最後に止むなく中断するに至った。
 このように十一世紀に始まる、伝統ある古式ゆかしい戦国の勇壮な“やぶさめ”を昭和55年に84年ぶりに復活し、ふるさとの古い歴史と祭政両道に優れた先人のご遺徳を偲びつつ、以来、春4月に武田流の古式流鏑馬神事の妙技が毎年披露されているのは、皆さんご存じのとおりです。

甲斐源氏の発祥

 周囲を山々に囲まれた甲斐、この国に平安以来、覇をとなえた甲斐源氏は、新羅三郎義光がその祖。
この甲斐源氏は、名門清和源氏の一流である。
 甲斐と清和源氏とのつながりは、義光の祖父に当たる頼信の時代まで逆のぼる。頼信は長元ニ年(1029)に甲斐守兼鎮守府将軍に任ぜられ、房総地方に猛威を奮っていた平忠常を長元三年(1030)平定し武名をあげ、東国に清和源氏の勢力を植えつけた。
 頼信の子、頼義も父に従って甲斐に入国したが、これも父に劣らぬ名将だった。睦奥の豪族、安倍頼時・貞任父子の反乱を、前後約十ニ年にわたる苦闘の末、これも平定した。「前九年の役」がこれである。また甲斐守としても民をこよなく愛し、父・頼信が甲斐に開拓した荘園を受け維いで、その拡張に力を注いでいった。
 頼義の三男・新羅三郎義光も文武両道に優れた名将だった。頼義についで甲斐守となり、国政に励んだため民もすっかりなついた。
この義光の子孫を「甲斐源氏」という。義光は近江園城寺(三井寺)の新羅明神の社前で元服し、三男のため新羅三郎と呼ばれる。
 義光が左兵衛尉のとき、出羽の豪族、清原氏一族の内紛に端を発した大乱、いわゆる「後三年の役(後三年合戦)」が起こった。義光は官職を投げうって奥州に都から応援に駆けつけ、長男・義家を助けて悪戦苦闘の末、乱を平定した。この時の「鷹の列の乱れをみて伏兵を知った」という話はあまりに有名である。
 この「後三年の役」によって、義家・義光(河内源氏)は清和源氏の主流となり、東国に源氏の基礎を築いた。それから104年後の、源頼朝の武家政治・鎌倉幕府へと続いたのであった。(義家から五代目が頼朝である)その後、京に帰った義光は刑部丞に命ぜられ、さらに常陸介、甲斐守を経て刑部少輔従五位上に至り、大治ニ年(1129)に没したという。
 義光はかって北巨摩郡須玉町若神子に、居館をかまえたことがあり、正覚寺には義光・義清父子の位牌が安置されている。(頼信・頼義・義家の墓所は大阪府羽曳野市にある。)
 頼信から義光に至る清和源氏三代の甲斐守は、いすれも任期が満ちると京都へ帰任したため、その勢威は一時的なもので、定着し浸透するまでには至らなかった。
「甲斐源氏」の登場は義光の子、義清と清光親子が、常陸国の武田郷(勝田市)から、甲斐国市河荘(市川大門町)へ配流されたことに始まる。のちに、清光は峡北地方を根拠地として、十余人の男子を県内各地に配備して一大勢力となった。逸見・武田・加賀美・安田・平井・河内・小笠原・一条・浅利・南部氏などの氏族である。
 その一人に信義(武田太郎)がいて、武田荘(韮崎市)に配され“武田氏の祖”となった。というのが通説であったが、武田発祥の地は常陸国・武田郷(義清が初めて名乗る)との説が近年有力である。彼らは、源平の合戦をとおして大活躍をし、鎌倉幕府の創業に大きな役割を果たしたのである。
 信義の子、信光(石和五郎)は、鎌倉幕府の功臣として安芸の守護となり、代々安芸と甲斐の守護を相伝した。とくに南北朝期に、足利尊氏に従って活躍した武田信武は、安芸と甲斐の守護を兼任し、引付衆の一人であった。その子孫は両家に分かれ、安芸の武田家はさらに若狭の守護にもなっている。
この武田信武は、武田家中興の祖と言われている。
 安芸・若狭の武田氏は、戦国時代に滅びたが、甲斐の武田氏は信虎のとき、守護から戦国大名に成長している。その後、信虎の甲斐国内統一から、大正十年(1582)武田家滅亡までの六十余年間は、武田信玄に代表される、戦国群雄が天下制覇をめざす、熾烈な死闘の歴史であった。
 甲斐武田家に伝わる重宝で、我が国最古の日の丸の旗といわれる『日の丸の御旗(みはた)=塩山市雲峰寺蔵』は源頼義が後冷泉天皇から下賜されたものであり、また、国宝の『楯無鎧(たてなしのよろい)=塩山市菅田天神社蔵』は、新羅三郎義光から甲斐源氏の宗家武田家に伝わったものである。

後三年の役

 前九年の役の後、約ニ十年を経て起こったのが、後三年の役(後三年合戦)であり、奥州清原一族の内訂に端を発したものである。
 永保三年(1083)秋、源義家が陸奥守として赴任。陸奥・出羽を支配していた清原其衡は、陸奥に下向した義家をおおいに歓待し、その了解をえて再び姻族の秀武追討のため出羽に向かった。するとその留守の館を義兄弟の清衡・家衡が再び攻めたので、真衡の妻は事情を義家に訴えて救援を求めた。
奥州に軍事的覇権を打ち立てようとしていた、義家にとって絶好のチャンスが訪れたのである。
 義家軍を目にした清衡・家衡は同じ馬にまたがって逃送。この間、出羽に出陣していた真衡は途中で病で頓死したので、清衡・家衡は開戦の責任を滑衡の親族で、すでに戦死した重光なる者に転嫁して義家に降伏。義家は陸奥の奥六郡のうち江刺などの三郡を清衡に、残り三郡を家衡に与えた。やがて吉彦秀武も義家に従い、義家の意図はひとまず成功するかに見えた。

沼・金沢棚の戦い

 今度は家衡と清衡が対立することになる。原因は、もともと清原氏と血のつながりのない清衡が、奥六郡のうち地理的に有利な南半分を継承したことに対する、家衡の不満にあったと思われる。
 家衡はまず清衡の暗殺をはかったが失敗。ついで清衡の館を襲撃。清衡は妻子・眷属を殺害されたが、自らの命は全うし、義家を頼った。
義家は数千騎を率いて家衡を出羽国沼柵(秋田県平鹿郡沼館町)に攻めた。これは数カ月の攻防となり、やがて義家軍は大雪にあって利を失い、飢えと寒さで凍死する者が続出した。時に応徳三年(1086)冬のことである。
 いっぽう、家衡の叔父の武衡は家衡の善戦を聞いて喜び、家衡に加勢。両者は沼柵を棄てて、より要害堅固な金沢柵(秋田県仙北郡金沢町=横手市の北方)に立てこもった。当時、義家の弟で新羅三郎と呼ばれた源義光は、京都で左兵衛尉の官にあったが、兄の苦戦を聞き無許可で睦奥に下向。これに勇気づけられた義家は寛治元年(1087)九月、数万の兵を動員して金沢柵の包囲を完成した。
 金沢柵の攻防戦は、中世前期の一騎打ちを主体とする武士の戦闘形態とはほど遠い、近代戦に似た非戦闘員の大量殺毅によって決着がつけられたものであった。
 激しい攻撃にも容易に陥落の様子を見せない金沢柵に対し、義家は兵糧攻めの策をとる。この作戦は成攻し、柵内の清原軍は飢餓に苦しむことになる。ついに武衡は義光を頼って降伏を願い出たが、義家は許さない。やがて冬になり大雪が降るに及んで、柵内の飢餓は甚だしさを増した。極限状態に達した清原方は城門を開いて柵内の女性や子供を脱出させようとした。これに対して義家は、柵内の人が滅れば糧食の尽さるのが遅れるという理由で、柵から出てきた清原軍の兵士たちの妻や子供を、彼らの眼前で皆殺しにしたのである。11月14日、糧食の完全に尽きた金沢柵はついに攻め落とされ、家衡は逃送しようとして討たれ、武衡は捕らえられて助命を求めたが斬られ、合戦はようやく決着したのであった。
 ところで、この時の敗者に対する処遇は極めて残酷なものがあった。義家軍の兵士たちは金沢柵に「みだれ入て」清原軍の兵・女子を虐殺し、「逃ぐる者は千万が一人なり」という凄惨な場面を現出した。「わしのすむみやまには、なべてのとりはすむものか、おなじき源氏と申せども、八幡太郎はおそろしや」と謡われた義家の実像を、この話はよく伝えている。
 現在、この合戦の最後の舞台となった金沢柵の近くの古戦場に、『平安の風わたる公園』があり、“いにしえ”を今に伝えている。

公戦か私戦か

 合戦の後、義家は睦奥守の立場から中央政府に上申書(国解)を提出したが、これに対して政府は、「武衡・家衡は義家の私的な敵ということである。官符を下せば勧賞を行わなければならない。よって官符は発給しない」という対応を示した。これを聞いた義家は武衡らの首を道に棄てて、むなしく京都に上ったという。
 戦乱の発生に対して政府は義家の弟義綱を使いとして出羽に下そうとし、また召して合戦の情報を問い、さらに合戦停止の官使の派遺をはかるなど、かなり状況の掌握に努めていること等を考慮すると、これは政府の判断のとおり私戦と見るべきもののようである。
義光の下向も、のちに彼が北関東に勢力を扶植していることを考えると、都で重用されている次兄義綱に対抗して、長男義家の勢力の分け前にあずかろうとしたというのが真相のようである。
 後三年の役は、奥羽の新旧の軍事貴族たちの抵争に再燃の気配が見えたところに、奥羽制覇を頼義以来の宿願とする義家が介入して、大乱に発展させたものと見ることができよう。戦勝者の源氏の棟梁、義家は合戦後、皮肉にも陸奥守を解任され、対象的にこの大きな犠性によって安倍・清原氏の伝統を受け継いだ、戦勝者として生き残った藤原清衡の手によって平泉政権が樹立され、奥州藤原氏の基礎が築かれたのであった。
『後三年の役』にまつはる流鏑馬は「勝山の流鏑馬」のほか、義家の事跡に因んで流鏑馬を奉納する栃木市の「東宮神社祭典(5月14日)」。義家が合戦の帰途、冑を納め石清水八幡の心霊を祀って、流鏑馬を始めたと言われる埼玉県毛呂山町・出雲伊波比神社の「毛呂山の流鏑馬(11月3日)」などが知られ、戦国武士の勇壮な伝統を今の世に伝えている。

(完)

(勝山発行の広報紙より)