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900年以上の伝統ある・・・勝山の流鏑馬

流鏑馬神事流鏑馬の起源と伝統

 流鏑馬の起源は、第29代欽明天皇の御代、国の内外が乱れたのでこれを平定するに先き立ち、天皇は豊前国字佐の地に神功皇后、応神天皇の二柱を祀られ、神前において天下不定、五穀豊穣を祈られ馬上より三個の的を射られたのが、矢馳馬と云い後流鏑馬になったと云う。
 第59代字多天皇は時の右大臣源能有公に命じて弓馬の礼を制定され、以来「弓馬の礼法」は代々源家が相伝するところとなったが、源義光は甲斐塩平丘(市川大門)に居をかまえ甲斐源氏の祖となり、義清、清光と続き清光の長男太郎信義(文治2年3月没)は甲斐武田庄(韮崎)に住し甲斐武田の祖となり、弟の遠光の次男長清は甲斐小笠原(甲西)に住し小笠原の祖となり、これより「弓馬の礼法」は武田・小笠原の二家に分れるが鎌倉時代を経て室町時代には武田氏は甲州芸州若州の三ケ国の国主に分れるが「馬の礼法」は芸州の武田氏が司っていた。
 しかし、これとは別に源頼朝は鎌倉幕府を開くに当り源氏の氏神鶴ケ岡八幡宮に流鏑馬神事を奉納すべく、種々調ベた結果文治3年8月15日(1187)放生会の後にこの神事を奉納したのが鶴ケ岡八幡宮の流鏑馬が最初である。なおこの神事の射手五名の二番手に、前記武田信義の五男、井沢五郎信光(後の武田信光)が選ばれている。以来この神事は毎年同日、または翌16日に行われているが、時には他日由比ヶ浜に、稲村崎浜に遠く三浦三崎で流鏑馬、笠懸が行われ特に放生会流鏑馬は源家三代を経て文永3年(1266)まで続き北条時頼・時宗もよく練武に励んだことは「吾妻鏡」によって知ることができる。
 その後、武田氏の道統は一時若州の武田氏に移った時代もあったが、徳川時代初期慶長年間に、芸州の武田信直より細川藤孝公に預けられ幕末まで、肥後細川藩で保護され、明治19年旧藩家老竹原惟路師の高弟井上平太師に移され、その後、井上師の直弟であった金子有鄰に受継がれたのである。
昭和2年3月、ラジオを通して、「北条流の陣太鼓」を講演したのを初め、昭和6年5月、鎌倉宮護良親王墓参道に馬場開きを行ない同年8月例大祭に同所において流鏑馬神事を奉納した。(昭和8年まで)
 又、同年には「日本馬術普及会」を興しその稽古馬場を由比ケ浜滑川尻に開いたことは、当時の新聞が賑々しく報じている。
 昭和8年11月2月より明治神官に流鏑馬神事を奉納する機会を得たが、先師井上平太師が熊本て没するに及び、伝書「流鏑馬の射法」を初め数百巻に及ぶ古文書と共に武田氏34代司家を継承したのである。
 扨て、明治神宮流鏑馬神事は大平洋戦争がいよいよ苛烈を極めた昭和19年迄で華々しく施行されたが神宮戦災の為一時中止された戦後、明治神宮社殿が御再興成った、昭和28年11月3日の例大祭より見出度く復活し、また、鎌倉八幡宮、寒川神社、山梨勝山の冨士御室浅間神社の流鏑馬神事、三浦笠懸、馬事公苑騎射などが当流の恒例行事として今日に至っているのである。
 この間、熊本、高知、福島、山梨県等全国各地の神社に流鏑馬神事の奉納、やぶさめに関する口演等日本古式馬術の普及につとめたが、特に戦後時代劇の復活により真の日本馬術が理解され、映画「七人の侍」を初め近くはTV「草燃る」「影武者」等多数の作品の弓馬術指導と馬上武芸演技に協カしたのである。
 武田流の道統は、昭和55年3月、金子有鄰94才、高令のため、昭和9年以来射手として奉仕してきた嫡子金子家教が第35代司家を維承し、また多数の門人がよく練武に励むことによって現今、いわば流鏑馬に不向きな、競争馬を功みに馭して流鏑馬馬場を疾走する武田流の古式流嫡馬神事の妙技が本年も被露されるのである。